谷山
谷山麓の周辺の城としては谷山城があり、谷山氏の歴代の居城でした。南北朝時代に南朝の懐良親王が谷山氏を頼り北朝方の島津氏と争いになりました、谷山氏は応永4(1397)年には島津元久に降伏し、戦国時代前期に島津宗本家が南薩を支配下に置く過程でたびたび争いの場となりました。 江戸時代に入ると谷山城の大手口から海に向かって2キロほどのところに地頭仮屋がおかれ(現在の谷山小学校敷地付近)、その周辺に麓が形成されていました。現在の国道225号の谷山サザンホール入口交差点付近から谷山支所前交差点に比定される通りを「本馬場」、谷山支所前交差点から谷山小学校の南西の角あたりまで東西に伸びる通りが「仮屋馬場」、仮屋馬場の西端から南に西馬場が伸び、そのほか「馬口ノ馬場」「立石馬場」「小園馬場」などの通りがありました。今も谷山小学校の周辺や周辺の宅地に特徴的な赤い石垣が見られ、麓の雰囲気を感じることができます。