宮之城
宮之城の名前は、文禄4(1595)年、都城からこの地に移った北郷氏が都城にちなんで宮之城に改めたことに由来するとも伝わりますが、それ以前にも書状の中に宮之城と書かれているものがあります。 古くは祁答院に含まれる地域で、南北朝時代には虎居城を拠点にする祁答院氏が治めますが島津氏に敗れます。天正8(1580)年、島津貴久の三男・歳久が虎居城に入り祁答院を治めますが豊臣秀吉の怒りをかい、文禄元(1592)年に竜ヶ水での自害に追い込まれます。その首は京都一条戻橋に晒されますが京都にいた島津忠長がこれを奪い今出川の浄福寺(のち宝林庵)に葬りました。忠長は島津忠良の子・尚久の嫡男で、文禄・慶長の役でも活躍した武将でした。 慶長5(1600)年、北郷氏は都城に復し、島津忠長が宮之城に入ることになり、以後江戸時代は島津尚久を祖とする「宮之城島津家」の私領地となりました。領主仮屋は現在の盈進小学校の場所に置かれ、周囲に麓がつくられました。