鹿籠

鹿籠郷は喜入氏の私領地です。喜入氏は島津氏9代忠国の七男忠弘が初代で、喜入と指宿を領地とするようになります。5代季久の時、島津氏から喜入氏へと姓を改め、また鹿籠にも入りました。しかし文禄3(1594)年の太閤検地の際に争いを起こし、喜入氏は喜入・鹿籠を没収され永吉に移されます。7代忠政の時(慶長6(1601)年頃か)に鹿籠復帰が許されますが、忠政の長男・忠栄は島津豊久の跡継となり、8代忠高、その子亀次郎が早世、一時期豊州家7代久賀の次男・久延が後継とされますが辞退され、藩主光久の三男忠長が喜入氏9代目、九男久亮が10代目を継ぐことになりました。 領主仮屋は桜之城にあり(現在の桜山小学校、中学校の位置)麓はこれを取り巻くように東鹿籠の桜馬場・宇都・松下・宝寿庵、そして西鹿籠の岩崎・木塲・山下・水流などの集落につくられました。また明和年間(1764-72年)頃には領主仮屋は枕崎浦に移されました。 明治2(1869)年、喜入氏が領地を返還し、鹿籠語は坊泊・久志秋目郷と合併し南方郷となります。