種子島

種子島は古くは多禰国とも呼ばれましたが、天長元(824)年に大隅国に含まれました。鎌倉時代は幕府の直轄地で、派遣された地頭が治めていましたが、その後島津庄の一部となり、島津忠久が建仁3(1203)年に大隅守護でなくなると北条朝時が島津庄の地頭となり、種子島氏の始祖である肥後氏が地頭代として治めるようになります。その後肥後氏は島津氏に従い、南北朝時代は種子島の地頭職が南北どちらの恩賞として扱われるという不安定な状態でしたが、室町時代は種子島氏が支配していたようです。文禄4(1595)年、時の島主(領主)・種子島久時は知覧に移され、種子島は島津以久(島津貴久の弟・島津忠将の子)に与えられましたが、慶長4(1599)年に久時に返されました。 種子島郷は種子島氏の私領地として、府元村とも呼ばれた西之表村(現西之表市西之表など)に領主仮屋が置かれ、周辺に麓がつくられました。元は榕城中学校(内城)にあったものを、寛永元(1624)年に今の榕城小学校の場所に移しています。 麓の雰囲気を伝える建物として「月窓亭」があります。種子島家の家老であった羽生家の屋敷(寛政5年(1793年)築)が、明治19年にから平成12年まで種子島家の屋敷として使用され、現在は西之表市が購入し公開されています。