大崎

中世の大崎は救仁郷に含まれ、肝付氏の一族・救仁郷氏が治めていたと思われます。 南北朝時代に入ると、肝付氏(南朝方)、島津氏(北朝方)が争奪を繰り返し、延文2(1357)年には南朝方の武将として活躍した楡井頼仲が胡麻崎城を構えますが、北朝の畠山氏に味方する禰寝氏らによって攻め落とされます。延文4(1359)年には、島津氏久が救仁郷を領地とし、大崎もその中に含まれたと思われますが、以後も、志布志と肝付氏の拠点である高山の中間地点にあるため、北郷氏・新納氏・肝付氏が奪い合う地となりました。 文明13(1481)、肝付兼光が大崎城(龍相城)を築城、天文年間(1532-55)には肝付氏と島津氏(豊州島津家)との闘いの争いの舞台となるものの、天文12(1543)年には肝付氏が治める地となります。弘治2(1556)年、島津貴久方の軍勢が肝付方の守る龍相城を攻めると、これを肝付兼続が自ら出陣して壊滅させるなど肝付氏の勢力下で推移しますが、天正4(1576)年に肝付氏が降伏、領地が高山以外は召し上げられた際に大崎も島津氏領となります。 大崎郷初代地頭となった比志島国守は、龍相城を手狭として仮宿村に大崎城(新大崎城)築城に着手、しかしながら完成はせず、城内に地頭仮屋が置かれ(現大崎小学校敷地)、周囲に麓がつくられたと伝わります。