末吉

末吉は日向と大隅の国境に位置した大事な場所でした。島津氏初代忠久従って薩摩に入った家臣・稲村重家が末吉城を築いたと伝わります。その後足利尊氏が新納氏に与え、その後島津系和泉氏の所領となったこともあります。南北朝時代は野辺氏が治め、永享4年(1432)頃には島津氏9代島津忠国が末吉城を居館として利用、天正年間(1573-1593)は島津忠親(豊州島津家)、島津貴久から北郷時久(北郷氏10代)と支配が移ります。文禄4(1597)年豊臣政権の下で伊集院忠棟がこの地を得ますが、慶長5(1600)年の庄内の乱をきっかけに忠棟の息子・忠真が頴娃に移されると島津氏直轄地となりました。 各地から新たに末吉に郷士が集められ、中でも菱刈、高山方面から多く移り住みました。地頭仮屋は末吉城の内の野久尾(野首)城(現ひこばえ保育園)に置かれ麓が形成されます。宝暦5(1755)年に地頭仮屋が二之方村荷原(現末吉中学校敷地)に移り、麓も新しくつくられました。地頭仮屋の門は個人宅の門として今に伝わっています。