阿多

地頭仮屋は鶴之城跡付近に置かれました。 鶴之城は別名、阿多城・花瀬城ともいい、鎌倉初期に阿多忠景が築いたと伝わります。永正9(1512)年、田布施の亀ヶ城にいた島津運久は自分の領地と主張し攻め取ります。島津運久は相州島津家2代で伊作島津家の島津善久の室・常盤をその子を相州家の跡取りとするという条件をのんで娶った人物で、この約束によって相州家を継いだのが島津忠良です。 伊作とともに阿多の地を拠点として三州統一の足掛かりとしました。 阿多郷では享保10-13(1725-28)年に16キロに及ぶ用水路が掘られる難工事の末阿多新田が開発されました。