大口

大口という地名は1500年代後半から使われていることが推測されますが、はっきりした由来や時期は特定されていません。中世では牛屎院の名で出てきており、牛山城(牟田口城・大口城)が牛屎氏の居城であったといいます。牛屎氏は、平元衡が保元3(1158)年に牛屎院に下ることからはじまり、1400年代半ばに牛屎院に代わり牛山院の名前がみられるようになり、長禄2(1458)年から寛正5(1465)年まで相良氏は島津氏より牛山を譲られ、この時に牛屎氏は当地から去っています。その後薩摩と肥後の間にある当地は、相良氏と相良氏の親戚である菱刈氏、島津氏との間で争いが続きます。牛山城は享禄3(1530)年に菱刈氏に攻略されますが、永禄10(1567)年、島津義久は菱刈氏を攻め、永禄12(1569)年に菱刈氏は降伏、この戦で功績のあった新納忠元が大口城に入りました。豊臣秀吉による島津の領内の検地は、大口城の麓より始められています。
地頭仮屋は大口城の西麓、現在の大口小学校の場所に置かれ、周囲に麓がつくられました。
大口郷は肥後国との国境の大事な地として重要視され、番所や辺路番所が置かれました。