鶴田
宝治2(1248)年、川内川流域(東郷・祁答院・鶴田・入来院・高城)に入った渋谷光重の五人の息子のうち四男重諸(重茂)が鶴田氏の祖ですが、承久の乱で戦死しているため、その子重行の時に鶴田に入ったと思われます。鶴田氏は室町時代中頃には奥州島津家氏久に味方します。そのため氏久と敵対した総州島津家伊久とこれに味方した渋谷四氏(東郷・祁答院・入来院・高城)に鶴田城を攻められ敗れ、菱刈に逃れました(応永8(1401)年、鶴田合戦)。隣接する祁答院は光重の三男重保を祖とする祁答院氏が治めていましたが鶴田合戦ののち、祁答院氏が鶴田も治めるようになったと思われます。しかしながら祁答院氏も永禄9(1566)年に絶え、島津氏は同族であるので入来院氏にこれを治めさせようとしましたがうまくいかず、鶴田を含む祁答院は島津氏領となりました。天正8(1580)年には、鶴田・柏原・紫尾を含む祁答院12ヶ村が島津歳久に与えられています。 文禄4(1595)年から慶長5(1600)年までは北郷忠能領でしたが、その後鶴田・神子・柏原・紫尾の4ヶ村で鶴田郷となり、直轄地となりました。鶴田村は地頭仮屋が置かれ、麓村ともよばれました。