大姶良

大姶良郷は中世にはその南部が禰寝北俣の一部で、東部が姶良西俣、北西部は下大隅郡でした。禰寝院北俣の荘園領主であった富山氏は、子孫が大姶良・横山・志々目・浜田の地に分かれそれぞれの姓を名乗ります。 南北朝時代になると、大姶良は諸勢力の争いの場となります。 建武3(1336)年、肝付兼重の弟肝付兼成は西俣城を拠点として大姶良城を攻め、富山氏一族は横山城に拠って応戦。肝付兼成は観応2(1351)年に横山城を破り大姶良・横山・浜田は敗走しますが、その帰りに竹の茂みからこれを狙った志々目義貞に打ち取られ、志々目氏が大姶良城を拠点として肝付氏を撃退します。この混乱をみていた楡井頼仲が大姶良城を奪い、一方南側から大姶良を狙っていた禰寝清成も大姶良城を攻め、文和2(1353)まで楡井氏と禰寝氏の争いの地となりました。延文2(1357)年、楡井氏は北朝方から南九州に派遣されていた畠山直顕と禰寝氏に挟まれ楡井頼仲の居城・志布志松尾城が落城。ここで楡井に味方していた菊池武光が畠山を穆佐に攻めたため畠山は豊後に逃走しました。菊池氏は志布志の大慈寺の楡井頼仲の墓に詣でこの地には留まらなかったので、島津家6代氏久が大姶良城に入り、長男元久(島津家7代・奥州島津家2代)は正平18(1364)年に大姶良城で生まれています。 氏久がいつまで大姶良にいたのかは不明ですが、島津氏の拠点が移ると、禰寝氏が大姶良と西俣を治め、享禄3(1530)年以後は肝付氏が押さえました。 天正4(1576)年に肝付氏が島津氏に従うと、天正15(1364)年以降は伊集院忠棟にそして文禄4(1595)年以降は直轄地となりました。慶長年間以降に、阿多や志布志などから郷士が移り、大姶良村に地頭仮屋が置かれ、麓が形成されました。