田布施
田布施を含む阿多北方は鮫島氏が地頭として治めていましたが、宝治元(1247)年に二階堂氏に与えられています。二階堂氏は応永13(1406)年島津氏第7代当主・元久と敵対し敗れ、田布施は伊作氏に与えられます。しかし応永25(1418)年、島津氏第8代当主・久豊(元久の弟)と伊集院頼久の対立の中で伊作氏(久豊方)と阿多氏(順久方)が田布施の貝殻崎で合戦、伊作氏は敗れ島津氏領となります。島津氏第9代忠国から田布施を与えられた庶長子島津友久は亀ヶ城(田布施城・亀山城)を築き島津相州家をたてます。この城で生まれた相州家運久は阿多まで領地を広げ、伊作島津家島津善久の子・島津忠良を養子に迎えます。永正11(1514)年、亀ヶ城で忠良の長男貴久が生まれ、大永6(1526)年には貴久は島津氏第14代当主勝久からその座を譲られることになりました。このようにして田布施は伊作・阿多とともに三州統一の足掛かりの地となりました。 江戸時代は直轄地であり、亀ヶ城の西側に地頭仮屋が置かれ周辺に麓が形成されました。