清水

周辺地域は南北朝時代には税所一族が橘木城(霧島市国分重久)を拠点に勢力を誇りましたが、16世紀前半には島津氏の家臣本田氏が治めます。しかし本田氏が島津氏に背く動きを見せたことから天文17(1548)年に島津忠良が本田氏のいた清水城を攻撃しこの地から追い払いました。清水城は島津貴久によって忠良の二男・忠将に与えられます。忠将は清水城で13年過ごしますが、永禄4(1561)年肝付氏との廻城の戦いで戦死します。 忠将の子・以久は、天文19(1550)年に清水城で生まれています。以久は豊臣秀吉の太閤検地に伴う移封によって文禄4(1595)年から一時種子島を領しこの時清水城は廃城となりました。さらに慶長8(1603)年に佐土原(現在の宮崎市)に移封されて佐土原島津家の祖となります。また忠将の曽孫・久信は鹿屋から移り垂水郷を本領地としたため、忠将は垂水島津家の祖とされました。 江戸時代、清水郷は直轄地であり、地頭仮屋は清水城から続く小高い場所に置かれ、周辺に麓がつくられました。麓には「先なしの所」という行き止まりや「枡形」が設けられ、今もうかがい知ることができる場所があります。