川辺

川辺は南北朝時代には、島津氏が地頭となっており、その後、島津氏同族の中で支配が争われています。即ち最初は総州家で、この時に平山城(川辺城)が築かれたとされます。そして奥州家、薩州家と支配が移りました。最終的に相州家の島津忠良が南薩の地から薩州家を追い出す際に平山城をめぐっても戦いがあり川辺も手に入れ、本宗家の直轄地となります。慶長年間(1596-1915)に平山城の南側に地頭仮屋が置かれ(現・南九州市市民交流センター ひまわり館付近)その周りに麓が形成されました。郷士屋敷は川辺郷土誌によると、現在の県道19号の両脇から現在の国道225号の北側まで、東は野崎川、西は現在の南九州市役所川辺支所のあたりまでが多く、商人の町である野町もその間にありました。