大根占

平安時代後期から戦国時代にかけて、現在の鹿屋市南部と錦江町(旧大根占町)を禰寝院北俣、現在の南大隅町(旧佐多町、旧根占町)と錦江町田代(旧田代町)を禰寝院南俣といい、併せて禰寝院と呼びました。また前者を大禰寝院、後者を小禰寝院とも称しました。 大禰寝院は島津荘の一部で、荘園領主である富山氏が代々治めていました。南北朝時代になると、南俣を拠点とする禰寝氏が北俣に進出、富山氏は禰寝氏に従いました。戦国時代は禰寝氏と肝付氏の勢力とが北俣を境にして争いますが、同じく肝付氏と争う島津義久と禰寝氏は元亀4(1573)年に結びました。しかしながら禰寝氏は文禄4(1595)年に吉利(現日置市日吉吉利)に移されることになり、その後北俣・南俣いずれも含む禰寝院の領域が禰寝郷として直轄地となったと思われます。 その後仮屋之村(城元村)・大根占村(馬場村)・神之川村からなる大根占郷が禰寝郷から割かれて成立したと思われ、地頭仮屋は大根占小学校東側に置かれ、周辺に麓がつくられました。