串良
【串良麓】 串良は中世には串良院と呼ばれていました。建久8(1197)年の大隅国図田帳に島津庄寄郡として出てきます。その後南北朝時代に至って島津貞久、氏久が勢力を広げ、応永18(1411)年、島津氏の家臣・平田重宗が岩弘城を築きます。しかし重宗の孫・兼宗は当主島津忠昌に翻意したため討伐され岩弘城は廃城、亀鶴城(串良城)に城代がおかれるようになりました。その後肝付氏などとの争いが繰り返されながら、天正4(1576)年肝付氏から串良・鹿屋・大崎の支配が島津氏に移り、串良は島津忠長(島津貴久弟・尚久の子、宮之城島津家二代)の領地となります。豊臣政権下では伊集院忠棟領となるなどしますが、慶長4(1599)年島津氏直轄地となりました。 串良城跡の南東麓に地頭仮屋が置かれ、周辺に麓ができました。 天明4(1784)年、それまでの天候不良などによる大飢餓で困窮した甑島の郷士が移住を藩に申し出、串良郷有里村に四十八家が移住しています。当時大部分は原野であった富ヶ尾が開拓されることになりました。この時串良郷の郷士たちは紋付袴姿で甑島からの到着を丁重に迎えたと伝えられます。