永吉

永吉は天文2(1533)年、島津忠良の領地になったときからの名で、もとは日置南郷といいました。南郷城があり、建久年間に登場する桑波田覚弁が最初の城主とされこの地の郡司でした。桑波田氏はこの城の城代として続き、大永6(1562)年に島津勝久から島津忠良に与えられ際も桑波田栄景が城を守っていました。しかし忠良と薩州家との島津家本宗家を巡る争いの際に栄景は薩州家につき、忠良は栄景が狩りに出かけたのに乗じてこの城を攻め取り、その後の勢力拡大の足掛かりとしました。 その後忠良の子・忠将が置かれたり、上井覚兼などの地頭が置かれたりしましたが、慶長9(1604)年に鹿籠の領主・喜入忠続の子、忠栄が永吉島津家を継ぎ、その後領地としたことから永吉島津家の私領地となりました。 永吉島津家は島津貴久の四男・家久を祖とし、その子・豊久は関ケ原の合戦で義弘の身代わりとなり戦死したことで有名です。豊久の弟忠直も病となったため、忠直の娘を妻とし忠栄が豊久の跡を継いだのでした。忠栄は寛永元(1624)年に28歳の若さで亡くなったため、島津家久の八男・久雄が継ぎました。 南郷城の南側に麓がつくられ、忠栄が鹿籠から移った時の家臣などが麓のほか、榎下・新川原などにも分かれて住まいました。領主仮屋は現在の永吉小学校のあたりにおかれました。