日置

日置郷は日置島津家の私領地です。日置村と山田村、帆之湊浦、折口浦がこれに属します。山田村は出水郷3代目地頭としても有名な山田有栄(昌巖)を出した山田家の所領で、有栄の祖父有徳の時山田と日置を与えられ、有栄の父の代で高城の地頭となったため、島津氏の直轄地となります。 文禄4(1595)年、島津常久が日置郷に入ります。島津常久の祖父・島津歳久は豊臣秀吉に睨まれ、義久から差し向けれた兵に攻められ龍ヶ水の地(現・平松神社)で亡くなり、父忠隣はそれより先の天正15(1587)年羽柴秀長との根城坂の戦いで戦死しています。 歳久を祖とする日置島津家3代目として常久はわずか8歳で日置郷に入ります。慶長17(1612)年からは上之山城(上山城、初期の鹿児島城の山城部分を含む名称)に住み警護を命じられますが二年後に城中で死去。その子久慶は一向宗を藩内に広める画策をした咎で罰せられ、藩主家久の子・忠朝が日置島津家を継ぎました。この過程で日置島津家は日置郷の代わりに東郷が領地となりますが、続く久竹の代の延宝8(1680)年、日置郷を願い許され、これ以後日置島津家の領地として続きました。 御仮屋は日置小学校跡におかれていました。御仮屋の前に矢立馬場があり、仮屋馬場、上ノ馬場、下馬場の通りなどからなる麓がつくられていました。