市来
市来は中世には市来院といい、市来氏が治め、地域の城に市来鶴丸城(鶴丸城・御惣坊城)がありました。島津氏との攻防がありつつも、市来忠家と島津氏久の時代(14世紀後半)は婚姻関係を結ぶなど良好な時もありましたが、最終的には寛正3(1462)年島津家10代当主・立久が市来久家を市来鶴丸城に攻め市来氏は滅び、島津氏の直轄地となりました。その後市来鶴丸城は島津家の間の争いの舞台ともなり、天文8(1539)年薩州島津家の実久の影響下にあった当城を島津貴久が攻め落とし支配下に置き、山田有徳、新納康久などが地頭となりました。江戸時代も引き続き直轄地となり、麓は現在も「麓上」「麓下」の集落名が残ります。一方、八房川河口には市来湊があり、中世には薩摩国の代表的な湊であり、地頭仮屋は湊町に置かれました。現在のいちき串木野市市来支所の場所にあたります。