隈之城

隈之城は室町時代には碇山城を本城とした島津総州家(島津家6代師久を初代とする)が治めていたと思われます。その後総州島津家4代久世と叔父忠朝、総州島津家と対立する島津家8代久豊、さらにこれに対立する伊集院頼久の間の戦いが続き、応永24(1417)年に久世が没し、久豊と頼久が川辺の平山城での戦いを経て和解、久豊の矛先が忠朝に向くと、応永26(1419)年、忠朝は隈之城を拠点にこれを防ぎました。隈之城は二福城ともいい、築城年代など詳しいことはわかりませんが、応永28(1421)年、再び島津忠朝は島津久豊方の島津忠国に攻撃され撤退。その後、永正9(1512)年頃入来院重聡が隈之城が与えられましたが、永禄12(1569)年に伊集院重嗣が島津氏に降伏すると隈之城は島津氏領となり、島津家久に与えられました。 江戸時代は直轄地で、地頭仮屋は最初二福城の麓におかれ周辺に麓がつくられましたが、地頭仮屋は慶長年間に川内川に接する向田に移りました。