平佐

平佐城は標高30mのシラスの丘で諏訪之尾城ともいいます。応永14(1407)年、島津家6代当主(総州家初代)・師久の次男、伊久は、川辺の平山城を伊集院順久に追われ、伊久の子・忠朝が拠点としていた平佐城に逃れ没した記録が確認できる一番古いものになります。直後に島津家7代当主(奥州家2代)・元久に攻められこの城は放棄され、天文元(1532)年には入来院重朝が攻略しますが、永禄12(1569)年に入来院氏が島津氏に降伏すると平佐城は島津氏のものとなりました。 豊臣秀吉の九州征伐の際、平佐城には地頭桂忠昉がおり、300人が籠城、豊臣軍8500人の軍勢を相手に奮闘した城として有名になりました。 江戸時代は平佐北郷家の私領地となります。北郷氏は島津家4代忠宗の子・資忠を祖とする家で、都城を拠点としていましたが、10代時久が文禄4(1595)年都城から宮之城に移された際、三男・三久は平佐の地に来ることになり、平佐北郷家の初代となりました。平佐城のある平佐村と隣接する天辰村で平佐郷をなし、平佐北郷家の私領地です。 江戸時代平佐城の 二之丸跡に平佐北郷家の領主仮屋が置かれました。現在の平佐西小学校にあたります。平佐城東側には慶長元(1596)年に北郷家菩提寺として創建された梁月寺があり、北郷家墓地として今に伝わります。