穆佐

穆佐には遅くとも南北朝時代から穆佐城が築かれていました。穆佐高城、六笠城とも。伊東氏、土持氏、北朝の畠山義顕、九州探題の今川了俊と穆佐城に入るものは変わり、この地の重要性がうかがわれます。 応永10(1403)年に、穆佐を含む川南は島津家第7代元久のものとなり、叔父久俊が入りますが、その後元久の弟・久豊が入ります。久豊の子忠国は応永10(1403)年に穆佐城で生まれ、誕生地に植えられた杉木二株があり、御誕生杉・御年比較ともいわれていましたが、明治7(1874)年に焼失しています。応永18(1411)年伊東氏が進攻し久豊・忠国は末吉に撤退、その後伊東氏、島津氏の争いがありながら、長く伊東氏の支配下にありました。 天正5(1577)年に伊東氏が豊後に退くと島津氏が入り、江戸時代、小山田村・上倉永村・下倉永村の3ケ村からなる穆佐郷は直轄地となりました。地頭仮屋は小山田村の穆佐城の麓に置かれ、郷士は穆佐城周辺や門前地区に多くが住んでいました。高岡・倉岡・綾とともに関外四ケ郷と呼ばれました。