倉岡

倉岡には倉岡城(池尻城)があり、応永10(1403)年に島津元久が伊東氏の加江田城を落とすと、穆佐にその弟・久豊が入り、池尻・白糸・細江に城を築きます。伊東氏は懐柔せんと娘を久豊に嫁がせたので元久はこれを怒り軍を率いてやってきて、久豊も伊東氏とともに綾・本庄から白糸・細江の間に陣をひきました。この時は元久の説得に久豊が応じ戦いにはなりませんでした。 応永年間(1394-1428)、島津元久が樺山氏に倉岡の土地を安堵するなどの記録が見えますが、周辺同様、伊東氏の支配下の時期が長かったと思われ、永禄年間(1558-70)年は伊東48ケ城のひとつでした。天正6(1578)年以降、島津氏の支配下におかれ、地頭は吉利久金が任じられ、内政は上井覚兼の指示下にありました。 江戸時代倉岡郷は直轄地であり、糸原村・有田村の2村。高岡・穆佐・綾とともに関外四ケ郷と呼ばれました。大淀川とその支流・本庄川の合流地点、柳瀬に川口番所がありました。