都城

都城は、南北朝後期、北郷氏2代・義久が都城という城を築城したことから生じる名前です。北郷氏は島津家4代忠宗の子・資忠を祖とする家です。この地は島津氏の支配の前線にあたりたびたび戦いの場となっています。なお戦国時代から江戸時代にかけて庄内と呼ばれることが多い地域です。北郷忠相のとき都城盆地一帯を完全に治め都城もこの地域有数の城となったと伝わります。 文禄4(1595)年伊集院忠棟が都城の領主となり北郷氏は祁答院に移ります。慶長4(1599)年に京都伏見で島津忠恒が伊集院忠棟を殺害したことに端を発し、忠恒の息子・忠真による「荘内の乱」が起こりますが鎮圧され、北郷氏の北郷忠能が再び都城に入ることになりました。 江戸時代を通じて北郷氏の私領地であり、領内はさらに7郷(荘内七ヶ郷)にわけられ、このうち中心の都城郷には領主館(現在の都城市役所、明道小学校付近)がおかれその周囲に麓が形成されました。