松山

中世には新橋に松山城(松尾城)が築かれ、応永20(1413)年には新納氏が松山城をおさえています。戦国時代にかけて、新納氏、豊州島津氏、北郷氏が争奪を繰り返し、豊州島津家が支配下におきます。永禄2(1559)年になると肝付氏の掌握するところとなり推移しますが、天正5(1577)年、肝付氏が島津氏に従い高山以外の所領を没せられたため、島津氏直轄領となりました。 志布志郷に含まれていましたが、文禄元(1592)年に新橋村、秦野村、尾野見村が松山郷として分離、江戸時代は直轄領でした。地頭仮屋は新橋村・松山城の南麓に置かれ、周囲に麓が形成されました。秦野村にも郷士が住みその数は新橋村より多かったといいます。また尾野見村の黒石には新納氏の家臣、大野原には伊勢氏の家臣が住んでいたと伝わります。