山之口

南北朝時代に山之口に下向した北朝方の土肥実重が福王寺を名乗り、走湯権現(現走湯神社)を勧請し、その別当寺・修善寺を建立したと伝わります。 享禄年間(1528-1532)には、伊東氏がこの地をおさえ、山之口の山之口城は、庄内三俣の八ケ城の一つであったといいます。 しかし天文2(1533)年に伊東祐充が死去すると、北郷・北原・肝付氏が三俣の城を攻撃、天文3(1534)念には、都城を拠点にする北郷氏は伊東氏の高城を攻撃、その際山之口城・梶原城が落城します。こうした伊東氏の衰退に伴い北郷氏の抑えるところとなり、文禄3(1594)年の太閤検地で北郷忠虎に与えられますが、翌年には伊集院忠棟領となります。慶長4(1599)年の庄内の乱ののち都城島津家領となりますが、慶長19(1614)年に返上され、直轄地となりました。 山之口郷は山之口村・花木村・富吉村で構成され、地頭仮屋は山之口村におかれました。また山之口村は飫肥藩領境でもあり、多くの番所がありました。