須木

中世には須木城が築かれ、長く伊東氏の勢力下にありました。 永禄年間(1558-70年)は伊東氏に味方する米良氏が城主であり、元亀3(1572)年に島津氏と伊東氏が戦った木崎原合戦では米良筑後が伊東方で参戦し戦死、この跡を継いだ弟米良美濃は須木をもって島津忠平に降っています。こうして一度は島津氏の直轄地となりましたが、伊東氏に再度奪われ、天正4(1576)年に高原城を島津氏が攻め落とすと同時に伊東氏は須木城を放棄しました。文禄3(1594)年には、吉田・馬関田・小林・高原から160人が須木に移動を命じられています。 江戸時代、須木郷は須木村一村の郷であり、地頭仮屋は須木城の麓にありました。肥後に接している交通の要所で「八方境」といわれ、堂屋敷番所、八重尾番所、田代ケ八重番所、柚園番所の辺路番所4か所が置かれ、須木郷の郷士がこの任にあたりました。