坊泊

直轄領であり、当初加世田郷であったのが、坊郷・泊郷として別れ、正保年間(1644-48)または明暦3(1657)年に合わさり坊泊郷となりました。地頭仮屋は天明年間(1781-89)にそれまでの泊村から坊村の近衛屋敷跡に移転したと伝わります。 坊津は古くから海外に開かれた港として名を知られ、鎌倉時代末期、当地を含む河辺郡は北条得宗家の領地でした。応永年間には薩摩平氏の一族である別府氏の知行地となっていましたが、島津氏第8代当主久豊はこれを婿とするなどし、応永27(1420)年頃に南薩を平定、重要な湊である坊・泊をおさえました。以後島津氏はこの地を保持し続け、江戸時代も直轄地となります。江戸幕府の寛永の鎖国令によって唐船は全て長崎に寄港するように命じられますが、当地では密貿易が続けられました。しかしながら享保年間に行われた密貿易一斉取締によって19名の豪商がその地位を失ったと伝わります(享保の唐物崩れ)が、その後も漂着などを理由に明船の入港は続いたと見られ、漂着船保護のために通訳をする唐通詞が置かれ、津口番所には城下から2名が派遣されていました。 明治2(1869)年に、坊泊郷、久志秋目郷、鹿籠郷が合併し、南方郷となりました。