山田

山田郷は明暦4(1658)年に加世田郷から独立した直轄地です。中山田村に地頭仮屋が置かれ、周辺に麓が形成されました。 地頭仮屋から東側の大谷川を挟んだ向かい側に山田城(勝目ヶ城)がありました。薩州島津家第2代国久の子・忠綱の居城であり、忠綱の孫・忠宗の代に大野氏を名乗りました。忠宗は養子に樺山忠助二男・久高を迎えていましたが、忠宗が誅殺されたため、久高は樺山家に戻り大野家は途絶えます。忠宗の娘が島津久賀(黒木麓参照)の娘によく仕えたことや、大村領主であった島津久慶は薩州島津家の流れであった(薩州島津家5代・義虎と島津義久の娘の次男・忠隣の孫)、ことから再興に尽力し、久高の孫にあたる女子と三原重庸の二男・久行をもって大野家は再興されました。 山田郷と川辺郷の間には江戸時代に境界争いがあり、寛文12(1672)年、山田郷は川辺郷の永田・高田の併合を主張、川辺郷は山田郷はかつて川辺郷であったのだから川辺郷に併合することを主張していますがそのままになったようです。 山田郷は明治2(1869)年に勝目郷と改称しています。