牛根

牛根の牛根城は暦応年間、牛根氏が居城していたされますが、天文年間(1532-1555)には本田氏が領しており、本田氏が島津氏に攻め追われた後、天文17(1548)年に牛根城は肝付兼続に譲られています。 牛根の地は大隅をめぐる争いの中で要衝の一つであって、永禄4(1561)年、牛根の北側にある廻城の廻氏を肝付が攻めると、これを救わんとした島津貴久の弟・忠将はここで討死、その後貴久が自ら出陣し奪還します。その際牛根は肝付氏の一族・安楽氏が守りました。この戦い以後、島津氏と肝付氏の対立は激化、元亀3(1572)年、現在は桜島と大隅半島が繋がっている場所に位置する早崎を守っていた肝付氏の一族・河南氏を島津歳久が攻め、河南氏は牛根城に脱出します。天正元(1573)年、島津氏は平床に陣を置き、肝付氏は高隈側から茶園尾に陣を置こうとしましたが、島津忠長・川上久信がこれを攻めたため肝付氏は退却、牛根城は孤立し、天正2(1574)年難攻不落であった牛根城も和議によって島津氏に明け渡されました。 これ以後牛根は島津氏の直轄地となり、牛根城の麓に地頭仮屋が置かれました。 なお、欽明天皇の第一皇子がこの地に流れ着き、亡くなったのを祀る居世神社、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで敗れた宇喜田秀家が島津氏を頼り潜み住んだ地があります。