東郷
中世の高城は宝治2(1248)年、川内川流域に入った渋谷光重の五人の息子のうち次男早川実重が田海村車内入り車内氏を称し、子孫は斧淵の鶴岡城に移り東郷氏を名乗ります。室町時代に入ると東郷氏は島津氏と争い、永禄12(1569)年東郷重尚の時に降伏、東郷の本領のみ与えられます。天正15(1585)年の豊臣秀吉の九州侵攻の際、当主は・東郷重虎(島津家久の次男)であり当時は佐土原にいましたが、東郷の武士たちは鶴岡城に籠り秀吉軍に抵抗の意志を示したといいます。翌年重虎は実兄・豊久のいる佐土原に移され東郷家は断絶、宮之城島津家の島津忠長(島津忠良の子・尚久の嫡男)が東郷領主となります。 慶長19(1614)年に忠長の次男・久元が宮之城に移ると東郷の大半が直轄地に、一部が宮之城島津家領となります。 寛永10(1633)年に日置島津家の島津久慶(島津歳久の孫・常久の長男)が大村(薩摩川内市祁答院)から東郷に移ると山田村以外は日置島津家私領地となります。万治年間には東郷からの三村を含む山崎郷が成立し、同時期に山田村は日置島津家の私領地に組み込まれました。 延宝8(1680)年に日置島津家久竹(忠竹)が日置への復帰を願い出て許され、東郷の8ヶ村(田海、白浜、斧淵、宍野、鳥丸、藤川、南瀬、山田)が直轄地となりました。久竹が日置に移る際、東郷よりも日置郷は領地が少ないため家臣をすべて移すことはできず、家臣212人、次男三男560人余りが郷士として東郷にとどまりました。 地頭仮屋は斧淵村の後馬場にありましたが、川内川右岸にあって洪水を受けやすく、延享年間に鶴岡城跡の一角高城の近くに移転し、周囲に新しい麓がつくられました。