財部

財部の財部城は北俣城、また龍虎城ともいい、鎌倉時代の財部正信または財部正盛が最初の城主といわれます。財部はもともと北郷氏が治める地でしたが、嘉吉年間(1441-44)に島津氏の直轄地となり、文明18(1486)年に島津忠昌から志布志の新納忠続に与えられ、財部城も同時に与えられました。天文7(1538)年、新納忠勝と伊東祐充の争いの隙をついて北郷忠相が財部に侵入し龍虎城を攻めこれを奪います。 天正15(1587)年豊臣秀吉の九州征伐の際、財部城の北郷忠相は秀吉に反抗しようとしますが未遂に終わり、その後忠相は祁答院に移されます。北郷氏に代わって庄内の地には伊集院忠棟(幸侃)が入り、忠棟の家臣が財部城に置かれます。慶長4(1599)年に伊集院忠棟が島津家久に殺されると、大川原でこのことを知った忠棟の子・忠真は財部城を含む12城で島津氏と戦うこととなり、龍虎城には忠棟の甥・甚吉が立て籠もりますが、末吉城、都城梅北城に続いて財部城の敗北で庄内の乱は終結しました。伊集院忠棟は頴娃に移され、北郷氏は都城に復帰しましたが、財部は直轄地となりました。 庄内の乱の後、各地から郷士が移り住み、地頭仮屋の周りに麓がつくられました。また二代目地頭喜入昭嘉の時に武士小路の屋敷割りを始めたと記録があります。