水引

水引にあった水引城は今は国道3号が通るなどしてその姿はわかりませんが、屏風を立てたような崖であったので別名を屏風城ともいいました。 応永年間(1394-1428)年には島津総州家の勢力下にあり、応永18(1411)年に高城氏が五代城とともに水引城を攻め以後は高城氏が保持します。文明17(1485)年になると薩州島津家重久が高城に襲来しこの時水引城も攻略、以後水引城は文禄2(1593)年に至るまで薩州島津家領でした。 江戸時代は直轄地であり初めは高城郷の一部でしたが、寛永6(1629)年に分かれ、宮内・大小路・五代・小倉・草道・網津の村からなる水引郷となりました。地頭仮屋は宮内村にあり麓が形成されました。出水筋(街道)が通過する郷であり、且つ大小路町・宮内町・五代町・川畑町・京泊浦・船間島の6つの浦浜がありました。