藺牟田
慶長4(1599)年に伊集院忠棟が島津家久に誅殺されると、北郷氏は都城に復帰。東郷領主であった島津忠長(島津忠良の子・尚久の嫡男)が宮之城地頭職となります。この時黒木、藺牟田は宮之城島津家領となります。慶長6(1601)年に藺牟田は日置島津家常久(島津歳久の孫)の領地となりますが、さらに慶長19(1614)年島津久慶(常久の子)の時に日置井島津家の領地が大村に転封になり、樺山久高が市成より藺牟田に移り、藺牟田郷は樺山氏の私領地となりました。領主館は藺牟田小学校の場所にありました。 樺山氏の初代は、島津氏第4代・忠宗の五男資久で文保2(1318)年に日向国諸県郡の地を与えられ樺山郷石寺村(現都城市三股町)を拠点にして樺山氏を名乗ったことに始まります。樺山氏の二代目は資久に子がなかったため資久の弟・資忠(忠宗の六男資忠、北郷氏の祖)の二男が継ぎました。代々島津氏に仕え、11代久高は慶長14(1609)年の琉球侵攻の総大将となっています。