大村
中世の祁答院はその範囲も広く、旧祁答院町・薩摩町・宮之城町・鶴田町一帯にあたります。宝治2(1248)年、川内川流域に入った渋谷光重の五人の息子のうち三男吉岡重保が入り、柏原を中心にして治めたと思われますが、七代重茂の頃には虎居城に移り、本城としていました。 祁答院氏は島津氏に対抗する勢力でしたが、永禄9(1566)年に良重が夫人に暗殺されて断絶、その後祁答院は島津氏の支配下に置かれることになります。 天正6(1578)年、島津義久は弟の歳久に祁答院を与え、天正8(1580)年に歳久は祁答院に入ります。虎居・時吉・湯田・船木・平川・久富木、佐志、鶴田、柏原、紫尾、中津川、求名の12か村を治め、虎居城を居城とします。この時、黒木、大村、藺牟田は直轄地でした。 歳久はその後豊臣秀吉の逆鱗に触れ文禄元(1592)年に竜ヶ水で自害、その所領は没収されます。また文禄4(1595)年に伊集院忠棟が都城を領するようになると、それまで都城を治めていた北郷氏が祁答院に移され、先の12か村以外にも黒木、大村、藺牟田を含む合計30か村が代わりの領地となりました。この時北郷氏が都城にちなんで宮之城に改めたという説もありますが定かではありません。 慶長4(1599)年に伊集院忠棟が島津家久に誅殺されると、北郷氏は都城に復帰。東郷領主・島津忠長(島津忠良の子・尚久の嫡男)が宮之城地頭職となります。この時黒木、藺牟田は宮之城島津家領となりますが、大村は再び直轄地となりました。 さらに慶長19(1614)年、黒木、藺牟田を治めていた島津久慶(島津歳久の孫・常久の子)は大村に転封になります。寛永10(1633)年に東郷・真幸を加増され、久慶は東郷に移り、大村は再度直轄地になりました。