栗野

栗野は中世、栗野院がおかれ、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)が東西南北に配した四つの正若宮の一、正若宮八幡社(現勝栗神社)があり、正八幡宮領でした。 南北朝時代は、薩摩大隅の守護島津氏と日向の守護畠山氏の争いの場のひとつで、栗野は島津方の栗野郡司がいた場所でした。 室町時代になると、北原氏が飯野城(宮崎県えびの市)を拠点に勢力を増すと栗野も支配されます。永禄5(1562)年、伊東氏が栗野を攻めると、島津貴久はこれを救い、栗野を直轄地とします。 永禄7(1564)年に島津義弘は飯野城に入り、元亀3(1572)年の木崎原の戦いで伊東氏に勝利しました。この時も活躍した義弘の愛馬「竜白」は栗野木場竹牟礼の産馬で、戦いの最中、ひざを曲げて義弘の危機を二度も救ったので「ひざつき栗毛」と尊敬されました。義弘は天正18(1590)年には松尾城に移り、文禄・慶長の役には松尾城から出陣しています。 江戸時代は直轄地となり、松尾城の西に麓が形成され、地頭仮屋は木塲・原田に置かれました。

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