伊作

伊作の伊作城は、江戸時代に戦国島津氏の本拠であり大切な場所として鹿児島城下士に昼夜「御番」をさせた城です。 伊作は島津家初代・忠久が地頭になって以来、本宗家によって支配されましたが、島津久長(島津家3代・久経の次男)から伊作島津家が治めます。その後奥州島津家と総州島津家の争いの中で伊作島津家は奥州家に味方しますが、応永29(1422)奥州家久豊の軍に従軍した伊作勝久の留守中、叔父十忠が勝久の父久義を殺して勝久を追放しようとしたため、久豊は伊作を直轄地とします。永享4(1432)年に伊作教久(勝久の子)が伊作城の西之城を与えられ伊作島津家が伊作に戻ります。 教久の死後、実子が急死し、伊作島津家は島津家9代忠国の三男・久逸が養子となります。忠国は島津勝久の娘を妻にしていました。久逸の子・善久が明応4(1495)年に家臣に殺され、明応9(1500)年には久逸自身も戦死、跡を継いだのがまだ幼い忠良でした。忠良の母・常盤が相州島津家の運久と再婚したことで忠良は伊作家・相州家を継ぎ、大永6(1526)年には忠良の子・貴久が島津家宗家・勝久の養子となって守護職を譲られることになります。忠良・貴久は、鹿児島の清水城に移り、伊作は勝久の隠居地となりますが、勝久は守護職を譲ったことを翻意し忠良・貴久を攻撃、伊作城も返さない姿勢でしたが、短期間のうちに奪い返しました。 こうして大永7(1527)年から伊作を足掛かりに三州統一が始まることとなるのです。貴久の子・義久、義弘、家久も伊作城で生まれています。 江戸時代は直轄地であり、麓は地頭仮屋周辺にあり、大汝牟遅神社周辺にも郷士が住まいました。