恒吉
恒吉の恒吉城(日輪城)はしばしば争いの舞台となった城です。鎌倉初期に恒吉氏がこの地域にあったといいますが、詳しくはわかりません。その後、市成氏が輝北の垂野城を拠点として恒吉・福山・敷根を治めますが、建武年間(1334-38)年に島津氏領となり山田氏が置かれてその勢力下にありました。島津貴久のとき山田氏がこれを返還し、貴久が肝付兼続に譲ると、庄内の北郷氏、志布志の新納氏がこれを攻め、恒吉城を巡ってしばしば争います。最終的には弘治元(1555)年肝付兼続が恒吉城を奪い、永禄4(1561)年の廻城占拠のあとは恒吉城に撤退などしています。天正元(1573)年に北郷時久が肝付氏と国合原で戦い志布志地頭であった肝付竹友が戦死するなどし、翌年肝付氏が島津氏に従うと、天正5(1577)年に島津氏領となり、北郷時久に与えられます。文禄4(1595)年に北郷氏が祁答院に移ると伊集院忠棟の支配下におかれ、慶長4(1599)年、忠棟が島津家久によって殺されると忠棟の子・忠真は恒吉城を含む12城を拠点に島津氏と戦います(荘内の乱)。伊集院惣右衛門が大将に立て籠りますが、島津忠長、樺山久高、柏原公盛がこれを囲み、樺山久高が説得し、伊集院方は都城へ退きました。こうして島津氏の直轄地となり、寺山久兼が地頭となり麓を整備、地頭仮屋は恒吉城の一角にあり、長江川に沿って麓がつくられました。