百引

平房村にあった加瀬田城(平房城・加世田城、加世田ヶ城)は、中世の城として最も早い時期に記録に現れる城の一つです。建武3(1336)年に武家方の島津貞久が宮方の肝付兼隆を攻め落城させます。しかし兼隆は観応2(1351)年に楡井頼仲とともに加瀬田城を奪い、これを島津に味方した禰寝氏が攻撃しています。文明年間(1469-87)は島津氏に反抗した新納氏のものとなり、天文年間(1532-55)には肝付兼続の活躍により肝付氏のものとなりますが、天正5(1577)年に肝付氏が島津氏に降伏し島津氏領となりました。 慶長19(1614)年に百引郷がつくられ、直轄領となります。地頭仮屋が加瀬田城から堂籠りに移され、郷士が内之浦、谷山、福山、日当山などから移ってきましたが、分散して住い、麓集落がつくられなかったという特徴があります。鹿児島藩常備隊の編成にあたって明治3年から6年にかけて新たに麓がつくられ、般若寺跡(現在の輝北支所)に地頭仮屋が移されました。