櫻島

鹿児島のシンボルともいえる鹿児島湾の中に浮かぶ火山・桜島ですが、島の古い名前が鹿児島であったという説もあります。中世は向島と呼ばれ、元禄11(1698)年に桜島と呼ぶようにという達しがだされて公式の名前となっています。 鎌倉時代初めに島津忠久から地頭を命じられた東条氏が横山氏を名乗り、鎌倉時代末期に鹿児島城(上山城)にいたとされる上山氏が南北朝時代には横山に勢力を伸ばしたとされますが、その時期ははっきりしません。文明年間(1469-87)年には島津忠国の七男・忠弘(喜入氏初代)が向島を与えられたと伝わります。 戦国時代、薩摩半島を制し大隅に力を伸ばす島津氏と、大隅半島を支配する肝付氏の争いの中で、向島は重要視されます。島津氏の勢力下にあって横山には三角城が構えられます。現在桜島フェリーが行き来する桜島港近くにある袴腰と呼ばれる丘陵地で別名長門城ともいいます。元亀2(1571)年、肝付氏は禰寝氏・伊地知氏らと共に300隻余りの船で野尻を攻め、このとき向島にいた島津家久は約500騎を率いて応戦しました。天正元(1573)年には島津家久・歳久が瀬戸の対岸にある早崎で戦っています。 江戸時代も直轄地であり、桜島郷は向島郷とも呼ばれ18村がありうち12村に郷士は分かれて居住していましたが、半数以上は地頭仮屋が置かれた横山村の麓に集まっていました。 しかしながら大正3年の桜島の大噴火により地頭仮屋跡を含む麓の半分以上が溶岩で埋没しました。埋没を免れた西側の街路にその面影をうかがうことができます。