佐多
平安時代後期から戦国時代にかけて、現在の鹿屋市南部と錦江町(旧大根占町)を禰寝院北俣、現在の南大隅町(旧佐多町、旧根占町)と錦江町田代(旧田代町)を禰寝院南俣といい、併せて禰寝院と呼びました。禰寝院南俣の一部であった佐多は禰寝氏の庶流佐多氏が治めていました。南北朝時代になると、北朝方の島津家第4代忠宗の三男・忠光に佐多が与えられ、忠光は息子の忠直を佐多城に置いていましたが、南朝方の禰寝清成によって奪われたため、忠光はこれを奪還、忠光は佐多氏初代を名乗ります。また忠光は武功を重ね、正平8(1353)年には知覧も与えられています。その後佐多は佐多氏から離れ禰寝氏に安堵されましたが(永享7(1435)島津忠国の時とも、天文19(1550)年島津貴久の時とも)、天正元(1573)年に禰寝氏が島津氏に従い、文禄4(1595)年には吉利(現日置市日吉吉利)に移されると島津氏の直轄地となりました。