佐志
佐志は中世は祁答院に含まれ、永禄9(1566)年に絶えるまで祁答院氏によって治められていたと思われます。江戸時代になると伊佐郡佐志郷となります。 少し遡って文禄4(1595)に都城から北郷忠能が祁答院に移り、その後慶長5(1600)年に北郷氏が都城に復帰すると佐志を含む祁答院は宮之城島津家領となりました。 元和7(1621)年、宮之城島津家第3代久元に島津義弘の娘・千鶴が嫁ぎます。千鶴は伊集院忠真に嫁いでいましたが忠真は慶長7(1602)年に殺され、また慶長18(1613)年からは江戸で人質として暮らしました。このような苦労に報いるため千鶴には志布志槻野村など3000石が与えられていましたが、寛永6(1629)年に佐志が化粧料として千鶴に与えられます。 その後、佐志島津家が初代を千鶴の兄・忠清(島津義弘五男)としてたてられ、久元と千鶴の間に生まれた久近(久元の三男)が二代目となりますが早世、明暦2(1656)年、藩主島津光久の四男・久岑が千鶴の土地であった佐志を賜り、佐志郷は佐志島津家の私領地となりました。 領主仮屋は現在の佐志小学校の場所にあり、周囲に麓が形成されました。 ちなみに佐志島津家の領地は佐志郷に加えて、鶴田郷神子村、水引郷の一部にもありました。