山野

大口と同じく中世では牛屎院に含まれ、室町時代後期までには山野城が築かれたと思われます。この地を治めた牛屎氏7代元尚の子・元詮が山野を治め山野氏を名乗り南朝方に組します。その後相良氏が牛屎氏を抑えるようになると応仁元(1467)年頃には山野氏も相良氏に従いました。島津氏8代久豊の四男から始まる羽州家3代の島津忠明が牛山城に入ると山野氏は島津氏に従いますが、享禄3(1530)年に菱刈氏・相良氏が忠明を攻め勝つと菱刈氏に組しました。 永禄10(1567)年に島津氏が菱刈氏を攻めると山野城は放棄されました。翌年一旦山野城は菱刈氏に味方した相良氏に渡され和議が成立しましたが、さらに翌年の永禄12(1569)年に菱刈氏が降伏すると、山野城は島津義虎に与えられ、その家臣の税所篤職が入ったと伝わります。 江戸時代は島津氏の直轄地であり、山野城の麓に地頭仮屋がおかれ、周辺に麓がつくられました。 明治2(1869)年に、山野郷・大口郷・羽月郷が合わさり牛山郷となりました。