樋脇

樋脇郷にあたる地域は入来院氏の領地(入来院)でしたが、入来院氏が島津氏に下ると、清敷部分だけが与えられ、そのほかは島津氏の直轄地となりました。 さらに入来院氏は文禄4(1595)年湯之尾(現在の伊佐市菱刈)に移され家臣らも移転、島津氏の地頭が置かれ初代地頭・新納忠元の孫、忠光は家臣の移転を願い山崎・中郷・大村・中津川・長野からの五カ所衆中と呼ばれる家臣団が清色城下に集まりました。 慶長18(1613)年になって入来院氏は清敷の地に戻りますが、島津氏直轄地だった時の家臣が多く残り、入来院氏の家臣と争いが絶えませんでした。 万治2(1659)年、清敷は二つの郷に分けられ、浦之名村・副田村が入来院氏の私領地となり、島津氏の家臣は塔之原村に移り、周辺の5か村を加えて新清色となりました。その後、天明元(1781)年に塔之原の古城「樋脇城」の名をとって樋脇郷となりました。