国分

島津義久ゆかりの城 舞鶴城の麓

国分は古くは大隅国府が置かれた地です。また軍事面でも交通面でも薩隅日の要所で、古来豪族の対立が多く、南北朝時代には税所一族が橘木城(霧島市国分重久)を拠点に勢力を誇り、16世紀前半には島津氏の家臣本田氏が治めます。しかし本田氏が島津氏に背く動きを見せたことから天文17(1548)年に島津忠良が攻撃しこの地から追い払いました。本田氏の主城であった清水城は忠良の二男・忠将に与えられ、伊集院忠朗に姫木が与えられました。 島津義久は文禄4(1595)から居城していた富隈城(霧島市隼人町浜之市)から、慶長9(1604)年頃、舞鶴城(国分新城/霧島市国分)に移ります。慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの後、交渉によって本領安堵されたとはいえ、背後の城山(隼人城)を詰城としてつくられた城でした。その城下として国分麓が造られ、義久が滞在経験のある京都を参考にしたと伝わり、本通りは5間(約9m)、碁盤目状の町割りが今に伝わります。 島津義久は慶長16(1611)年に国分で亡くなり、金剛寺跡には義久を祀った三重石塔があります。その後義久の娘・亀寿もここに移り寛永7(1630)年に亡くなるまで過ごしました。そののちは直轄地となり地頭仮屋がおかれました。