吉田

吉田は薩摩国と大隅国の境に位置したため、島津氏の三州統一に際して重要視された場所でした。地域の城として吉田城(松尾城)があり、応永年間末頃に吉田清正が築城したと伝わります。永正13(1516)島津氏12代当主・忠治は吉田位清を攻めますがその最中に亡くなります。その後忠治の跡を継いだ弟で13代当主・忠隆によって吉田城は落城、位清は阿久根境で討たれました。位清は伊作島津家の島津善久(島津忠良の父)の娘を妻にしていましたが、これによって吉田氏は途絶えました。 以後島津氏の城となり。天正23(1554)年から弘治3年(1557年)まで続く蒲生合戦の前線の城として整備されました。蒲生氏攻略後も永禄6(1563)年から天正8(1580)年まで島津歳久がこの城を預かるなど重要視されていたことがうかがわれます。 江戸時代は島津氏の直轄地であり、地頭仮屋は松尾城(吉田城)跡にあり、麓は地頭仮屋周辺と、思川対岸の一帯にありました。