重富

重富郷は江戸時代中頃、22代当主・島津継豊の弟忠紀を継がしめて再興された重富島津家(越前島津家)の私領地です。 重富島津家は、島津家初代忠久の次男・忠綱を祖とし、その名は忠久が越前国守護職となったときに忠綱が守護代となって越前国生部庄・久安保重富を治めたことに由来します。その後一族は衰退しますが、寛文年間に子孫が由緒を求めて鹿屋に至りここで没し、携えていた文書類が新城島津家、垂水島津家を経て本宗家に渡り再興されることになりました。 なお、重富島津家を筆頭に、垂水島津家、加治木島津家、今和泉島津家は島津本宗家に次ぐ家柄(一門家)とされました。 領地は帖佐郷から4村、吉田郷から1村を分けています。領主屋形は、島津義弘も居城とした平松城跡(現在の重富小学校)におかれ、ここを中心に平松村に麓がつくられました。 城下での屋敷は下鼓川(現県民教育文化研究所敷地)にあり、また鶴江崎(現島津重富荘)に別邸がありました。